ATEM(映像メディア英語教育学会)東日本支部 2024年度・夏季例会発表募集

例会日時:2024年5月26日(日)                        

会場:麗澤大学新宿キャンパス

開催形態:対面開催(発表は会場で行います。オンライン発表はありません)

※遠隔参加する聴講者向けに、リアルタイム中継(配信)を検討しています。

対面開催で実施するため、発表者は会場にお越しください。聴講につきましては、会の盛況のためにもなるべく会場にお越しいただけましたら幸いです。

発表募集期間:2024年4月30日まで      

内容:例会テーマは特に固定はせず、各発表内容は発表者に一任いたします。「映像メディア英語教育学会」という学会名が示す通り、各種映像/音声メディアと英語教育が関連していれば受け付けます。領域も授業実践、教材開発、英語教育論(異文化理解教育等を含む)と幅広く捉えていただければと思います。そうした分野やトピックに関するワークショップ(※)のご提案も含みます。ご不明な点などあればご相談ください。

発表時間:発表20分に加え質疑応答5-10分を予定しておりますが、発表数や企画の有無などによって多少調整する場合があります。なお、発表のお願い(採否)については、応募締め切りから1週間程度でご連絡します。

※ワークショップ:発表者がファシリテーターとなり、特定のトピックに関する解説、および聴衆も含めた活動の実施、とお考えください。これまでに実施された例として、映像使用に関する著作権についての理解を深める講義、英語学習アプリの使い方に関する講座、英語で映画を撮る授業の実践体験、映画撮影技術の講座および実践体験等があります。なお、アクティビティなどが含まれる可能性も鑑み、ワークショップの実施時間は20-40分の枠内でご計画ください。

応募方法:以下の必要事項を電子メール本文に掲載し、ATEM東日本支部宛(ej-seminar@atem.org)にお送りください。なお、送信後3日経っても返信がない場合は、再度ご連絡いただけますようお願いいたします。

1.メール表題に「ATEM東日本支部発表申し込み」と記載

2.発表タイトル

3.発表者の氏名(複数名で1つの発表の場合はそれぞれの氏名)       

4.発表者の所属(複数名で1つの発表の場合はそれぞれの所属)

5.連絡先(メールアドレス; 複数名で1つの発表の場合はその発表の代表者の連絡先)

6. 使用言語

7.発表概要(日本語の場合は400字程度、英語での発表は200-300 words)

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Call for Presentations at the ATEM Higashinihon Chapter Study Meeting on May 26, 2024

Dear ATEM Members:

ATEM Higashinihon Chapter will hold a Study Meeting at Reitaku University Shinjuku Satelite Campus, on May 26 (Sun.), 2024. We are planning on making the meeting Face-to-face (Presentations will be made at the venue, no online presentations). Also, real-time live broadcast (streaming) is being considered for remote participants, but this is subject to change depending on circumstances, so please check the website for details.

We are calling for presentations on English education (language education) that uses visual and/or audio multimedia including movies, TV dramas, Youtube, etc. Your presentation should focus on class activities, the development of language teaching materials, theoretical or empirical studies, or cross-cultural communication studies, etc. We also welcome proposals for workshops on those fields or topics.

Each presentation will be 20 minutes with 5-10 minutes of Q and A. (This may be adjusted depending on the number of presentations and the related projects. Please note that you will be notified of your presentation request (acceptance or rejection) approximately one week after the application deadline. 

We will contact you about the details later. 

Application Period: To April 30, 2024

Acceptance notice will be sent by email around a week after the application deadline. 

We would appreciate it if presenters could come to the venue as much as possible to avoid possible networking problems. If you wish to make an online presentation from outside the venue, please inform us at the time of application.

When submitting a proposal, please provide the following information by an attached Word file to the ATEM Higashinihon Chapter Office 

(ej-seminar@atem.org). 

1 Please title your email as “ATEM Higashinihon Presentation Proposal.” 

2 Presentation title 

3 Name 

4 Affiliation 

5 Email address

6 Language of presentation

7 Abstract (400 letters in Japanese or 200 to 300 words in English)

「聖なる鹿殺し」(2017) ~秀逸なサイコホラー~

藤田久美子 進学塾TOMAS講師

(*注意:この文章には、物語の核心に触れる部分があります。映画をご覧になってからお読みになることをお勧めします。)

最近「哀れなるものたち」が公開され、いろいろ話題を呼んでいるギリシャ出身のヨルゴス・ランティモス監督だが、同監督によるサイコホラー、「聖なる鹿殺し」(The Killing of a Sacred Deer)は、公開(2017)からほとんど7年が経過した現在でも、様々に取りざたされる映画である。ギリシャ神話からヒントを得た、一種の寓話であると言えるかもしれないこの映画だが、見終わった後には、何とも言えない嫌な感じを残す、所謂、“イヤミス”の類の映画である。その“いやな感じ”は、同時に、不気味な感じに繋がっていく。その不気味さとは、結局人間そのものの不気味さなのだが、その不気味さをいや増すために、様々な仕掛けが作られているのだ。

この映画は、心臓の手術という、かなりショッキングな場面から始まる。そしてそのバックに流れるのは、荘厳なレクイエムである。初めてこの映画を見た人は、“一体これはどんな映画なのだろう?”と、一種の怖いもの見たさに駆られて、見続けるのではないだろうか。

映画の主な登場人物は、ある心臓外科医と彼を慕うように見える少年、及び外科医の家族であり、初めのうちは、外科医と少年は一体どんな関係なのだろう、というミステリーが支配する。コリン・ファレルが演じる外科医は、一見したところ如何にも真面目な、家族思いの医者で、全米の心臓外科医の中でも相当な地位についている人物だということが示される。

ニコール・キッドマン演じる美しい妻も眼科医で、一家は二人の子供と共に、郊外の豪邸に住んでいる。しかし、この家族の会話の様子は単調で冷たく、家族の間に暖かい血が通っているようには感じられないのだ。こうした会話の調子は、話が進むにつれて時々流れる不気味な不協和音と共に、この映画の主旋律を作り上げる効果として出色である。

外科医は時々病院に訪ねてくる少年(バリー・コーガン、素晴らしい演技である!)に、かなり高価な腕時計をプレゼントしたりするので、観客は、“少年は医者の隠し子なのか?”と想像するかもしれないが、そうではないことが、物語の中盤ごろに明らかになる。少年は、医者を母と二人で暮らす小さな家に招き、母と彼とを結びつけようとする。頻繁に病院にやってきては、“母は最近魅力的になってきたし、先生を恋している。先生が母と結婚してくれたら嬉しい”などと言って、医者を悩ませる。少年の話には、父親のことがよく出てきて、父親は心臓の病気で死んだようだ、ということがはっきりしてくる。

あまりにも頻繁に自分を呼び出すようになった少年にうんざりし、同時に恐怖も感じるようになった医者に対し、少年は、“先生の子供たちに災いが起きる、それが正義なんだから”と言う。その後、先ず息子が突然歩けなくなり、娘も同じ状態になる。医学的には何の問題もないのに、そんな状態になった子供たちのことを不審に思った妻は夫の同僚の医者(麻酔医)から、夫が少年の父の手術の前に酒を飲んでいたこと、しかも、そうしたことは頻繁にあったことを聞き出す。

何年か前の出来事であり、証拠があるわけでもないが、医者に非があるのは明らかであるのに、彼は少年を家の地下室に監禁して、殺そうとさえする。その間にも、少年の予言の通り、息子の両目からは出血が始まる。医者を脅迫する少年は、家族の誰かを殺せば、何もかもが元に戻ると言う。恐ろしい少年の脅迫の言葉を聞いた医者夫婦の関係は最悪になる。妻は夫を“元はと言えば、皆あなたのせいだ”と言って、夫をなじるが、同時に、まるでマクベス夫人のように、夫に恐ろしいことを囁く。

「残酷だけど、息子に犠牲になってもらいましょう。私たちは、また、子供が作れるし、体外受精も可能だわ。」 ”I believe the most logical thing, no matter how harsh this may sound, is to kill a child. Because we can have another child. I still can and you can.  And if you can’t, we can try IVF, but I’m sure we can.”  (IVF=体外受精)

そして、遂に、医者は、家族皆を居間に集め、自分にも家族にも目隠しをして、銃を構えてぐるぐる回り、最後に息子を殺してしまう。この場面は、“家族の誰かを殺す”という、信じられないほど悲惨な、悲劇的な場面のはずなのに、何故か滑稽ですらある。何故なら、最も罪あるものであるはずの夫が、罪なき子供を殺すことになるのに、それほど苦しんではいないように見えるからだ。自分の行為が原因で子供たちが苦しむのだから、普通は、何よりも自分自身を責め、ひたすら後悔すべきではないだろうか。そして、少年に対して心から謝罪すべきではないだろうか。

最後の場面は、町のダイナーで食事を済ませた医者の家族が、少年を見かけて、何も言葉を交わさずに、店を出ていくところである。もちろん、息子の姿はもうない。家族は息子の命を犠牲にして生き延びたのだ。しかし一体、このままですべて終わりだろうか、という疑問が残る。いや、決してこのままでは終わらないだろうと誰もが感じるはずである。

少年は、ギリシャ神話の、宿命を司る神モイライの化身であろうか?ともあれ、この話は、一種の風刺的なファンタジーであろう。予言通りのことを実現させる少年も不気味だが、医者とその妻こそ不気味だという感じがぬぐえない。さらに言えば、自分さえよければ、と考える人間こそ、不気味なのだ。

“それぞれの関係が真の愛に基づいたものではないことを如実に示す、抑揚のほとんどない会話”、“宿命の神の手(あるいは悪魔の手)が下される時に流れる不気味な不協和音”、“やり場のない不安に駆られているのに無表情な医者夫妻”、そして何より、“医者夫妻をじりじりと恐怖に陥れる少年の存在”などが、この映画のサイコホラーの重要な要素として挙げられるであろう。

監督が意図したと言われるギリシャ悲劇との関連などが今一つはっきりしないなど、作品としての出来という点では十分ではない点もあるが、優れた脚本とこうしたサイコホラー要素、そして勿論、俳優たちの優れた演技に支えられて、この映画は、“罪と罰、“職業意識”、“家族の関係”、“経済的格差”等の問題、そして何より“人間とは何か?”についてのメッセージを見るものに突きつける、見ごたえのある映画に仕上がっている。